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沿革・歴史

 開基の浄徳は、菊池家八代能隆の四男城越前の守隆経(城家初代・肥後国山鹿郡城村に館を構え、地名の城をとって城と称した)の十四代城十郎太郎久基で、元亀三年生まれ幼名を長千代といった。「開基の僧を 浄徳と云う。肥後国熊本の士にて俗名を長千代といへり。十八歳にて薙染し、二十五歳の時俗縁ありて当国に来る。慶長年中黒田長政公より今の所(薬院)に寺地を賜はり、資財をも施し賜ふ。依て一寺を建立せり。
(略)延宝年中より真宗西派の号令を司とる。」(『筑前國続風土記付録』)
 元亀元年、織田信長は大阪本願寺と交戦。
 天正八年、信長と和議。紀伊鷺森に本願寺移る。
 城久基は隈本(熊本)城主の城親冬の孫で父親賢没後の天正9年幼少にして9歳で家督を継ぐ。後見人に父親賢の弟叔父の出田一要(親基)があたり、久基に代わり政治の表に出る。この年、信長本能寺の変起こる。
 天正十二年、顕如上人宗祖御影を奉じて和泉貝塚へ移られ、秀吉と大阪で対面。

 天正十三年秀吉、大阪天満の地を本願寺に寄進。
 天正十四年秀吉、太政大臣に任じられ豊臣姓を授与される。その後豊臣秀吉の九州進攻により、久基は、天正15(1587)年 4月13日筑後にて秀吉に迎謁し(黒田家譜第一巻)、4月16日隈本城を明け渡している、

秀吉の先鋒隊として黒田如水・長政親子があった。この時久基14歳。「小早川文書・立花文書」の「豊臣秀吉の朱印状」に、同年 6月2日付けで、肥後の国主に佐々成政を任命し、同日付けで城久基に「於肥後國、汝本知内八百町令扶助訖、領地所付上中下相分、従成政目録別帋受取、全可知行 候也天正十五六月二日秀吉朱印城十郎太郎どのへ」と領地三千町の内八百町が安堵されて城村に移る。ただ城久基は肥後国人の名 和、小代氏と共にこうべをゆるされ、城主女子近親者共に当分の間、大阪暮らしとなっている。
 この年顕如上人准如上人に譲り状を書かれる。同じ年、島津義久は領 内の真宗を禁ずる。
 天正十五年8月7日に勃発した肥後国人一揆が十二月十五日終焉した後、天正十六(1588)年六月讒訴により城久基は本領を没収さ れて、筑後石垣山(福岡県田主丸石垣村)に領地替えとなって一族と共に館を構え居住する(新撰事跡通考)、(田主丸町史・姓氏家系大 辞典)、その時17歳。その他の国人は城、相良、小代氏を除いてすべて解体される。(天正16年参宮帳・大分県資料25)。
 浄徳、天正十九(1591)年世の無常を感じ18歳にして武をのがれ、真宗熊本西光寺にて薙染し、念仏門に入り「淨徳」と号せり。(光専寺寺伝)


石垣山 観音寺

観音寺 山門

 天正十九年秀吉、京都七条坊門堀川の地を本願寺に寄進。顕如上人、天満から現在地に移る。
 文禄元(1592)年、顕如上人急逝される。50歳文禄二年、秀吉准如上人に継職の証状を出す。
 慶長元(1596)年大地震で本願寺両堂、倒壊。翌年再建、しかしながら、またもや元和三(1617)年の火災で本願寺諸堂宇を焼失する。
 慶長三(1598)年秀吉薨去する行年六十三歳。この年浄徳25才、筑前国田尻彦右衛門先祖を縁として当国に来たると 『筑前国続風土記付録』にある。この年、諸侯朝鮮より帰朝する。
 慶長五(1600)年、関が原の戦い。
 慶長六年、如水・長政福岡城を築く。城下の万民年々繁盛人集まれり。
 慶長七(1602)年、黒田忠之誕生。如水57歳、長政35歳。浄徳31歳。
家康、教如上人に京都東六条寺地寄進する。これが大谷派本願寺となる。
 慶長八(1603)年家康、征夷大将軍となる。同年如水逝去59歳。
 慶長十年本願寺大阪別院再興。秀忠征夷大将軍となる。
浄徳、慶長年中(15年・1610年)黒田長政より福岡城の東にあたる薬院の地に土地を賜り・資財を拝領し一寺を建立する。(筑前国続風土記 付録)、浄徳三十九歳、山号鶴城山を拝領。平尾山一帯を鶴城山といい、山上に光専寺代々の墓地を賜った。同時に城家の家紋(藤輪の内の剣巴)を 受ける。(寺伝)
 慶長十七(1612)年4月24日には、本願寺准如上人より本尊木佛(現御本尊)と寺号光専寺が授与される。浄徳 41歳。元和元(1615)年大阪夏の陣、豊臣氏滅ぶ。元和四(1618)年、本願寺准如上人、「七高僧・太子像」を同時に門末に授ける式を定む。
(本願寺通紀)。

元和九(1623)年、家光将軍を継ぐ。
寛永元年(1624)5月21日准如上人より、光専寺に「蓮如上人真影」を授 与されている。浄徳51歳。顕如上人33回忌。


浄土真宗東本願寺派善龍寺

 その後、浄徳は光専寺を長男圓宿に譲り、次男淨尊を連れて唐人町の 黒田家照福院殿火屋禅堂{如水夫人照福院へ照福院然譽浩榮と称す、夫人五十二歳の時、如水逝去(慶長九年三月二十日)し、早く尼となり七十一歳の時、長政逝去(元和九 (1623)年八月四日)し、寛永四年八月二十六日みまかる、行年七十五歳。黒田長政夫人二代忠之の母、寛永十二年正月十二日五十一歳にて大涼院徳譽榮春と号し、葬送の儀ありし地}の荒廃を嘆きて、城主に願い、この寺に入り真宗善龍寺を建立する。

 寛永七(1630)年、准如上人御往生、54歳。翌年、良如上人代替わりお礼のため江戸へ赴く。
 寛永九年、徳川秀忠死す。57歳。
 寛永十三(1636)年、御影堂上棟する。
 寛永十四(1637)年十月、島原の乱起こる。忠之36歳
 続いて光専寺2 代住職圓宿のとき
 寛永15年(1638)7月9日本願寺第13代良如上人より「親鸞聖人御影」が、寛永十七 (1640)年3月27日、良如上人より「七高僧御影」・「聖徳太子御影」が授与され る。いずれも光専寺に現存。光専寺二代圓宿は延宝九年(1681)年5月2日往生す。
 寛永十五(1638)年二月二十七日島原の乱終わる。新見太郎兵衛、同年二月二十二日島原で討死、 行年二十七歳。禄高三千石、照壽院殿釋宗善居士。寛永15年三代黒田光之君乃御母公(養照院・二代忠之夫人)の実弟である新見太郎兵衛の遺言に より光専寺に葬られる。


新見太郎兵衛の碑

新見太郎兵衛の絵像

 『筑前国続風土記付録』には「寛永十五年光之君の御母公の弟、新見太郎兵衛を光専寺に葬る。其後国君より毎年米30苞を施し玉ふ。」とあり、それゆえ福岡藩内の真宗寺院としては唯一寺禄が 与えられている。
 法名照壽院殿釋宗善居士(光専寺山門脇境内に碑あり、遺骨は光専寺納骨堂御本尊下の光専寺代々に埋葬)
 二代黒田忠之が絵師に画かせた「新見太郎兵衛」の絵像が光専寺に現存保管されている。その箱書きには「照壽院殿御壽影松平筑前守様御修理 奉行梶原十兵衛、取次筒井亀右衛門、森太郎右衛門」の箱書きが残る。

寛永17年(1640)に「聖徳太子」と「七高僧」の御影を本願寺から受けていることは、現在のように内陣と下陣及び余間を持った本格的な真 宗の本堂が造られたことがわかります。このように光専寺は、江戸時代の初期に開基されてから一気に本堂が整備されていったことがこの たび修復された御影類によりまして知ることができます。」(本願寺資料研究所研究員岡村喜史氏)
 光専寺第三世伝正(秀)は、慶安五(1652)年5 月27日「伝正(秀)自筆の誓詞血判書」をご本山の坊官(下間小進殿、下間大進殿、下間?殿)に提出している。
 この原本(和紙縦31cm横48cm)を古書業者(金亀堂大沢商店)が所蔵しているとのことで、取得し表具して保存されている。此れは、慶安四年四月、将軍家光の死去により,同年五月八日、良如上人江戸へ赴き、 幕府へ疎略なき旨誓詞を出し,末寺にその旨を通達したことによるものと考えられる。七月には、由井正雪の慶安の変、倒幕の陰謀事件が起こり、八月には、家綱四代将軍を継いでいる。 光専寺第三世「傳秀(正)自筆の誓詞血判書」の解読書には

血判書

とある。
 承応二(1653)年、浄徳往生する。80歳
 
承応三年、忠之逝去する。53歳
 光専寺は延宝年中より明治初年まで、萬行寺・徳栄寺とともに筑前の国の「触頭」を勤めると寺伝にあるが、『諸国江遣書状之留』に天和2年(1682)9月4日「光専寺儀、従御国主其地御宗門支配、各同前被仰付候旨得其意候」とあることから、四世住職元宿の時、国主である三代光之(55歳)から任命されている。四代黒田綱政(24歳)
 光専寺は延宝弐(1674)年八月十六日、寺領として米三拾苞(俵)を光 之(47歳)より寄進される。桂壽(養照院の御母)の法名、新見太郎兵衛(養照院弟・光之の叔父)の墳墓があるため。明治初年まで。光之の母養照院は延宝五(1677)年七月十六日卒し、行年七十一歳、養照院松岩榮壽と号す。
  「貞享四(1687)年二月二十二日には、光専寺にて新見太郎兵衛の五十回忌を勤。白國八右衛門町奉行、奉行し、澤木五郎右衛門與の足軽を召具して事を執らしむ。山内助左衛門代香をつとむ。」「黒田家譜 第二巻」とあり、法事がその都度光専寺で勤められている。
 第三世伝正(秀)は長者原合戦(1362(正平17)年北朝、貞治元年南朝9月21日)にて先祖一族討ち死にの里をとむらい、糟屋郡に一寺建立する。


長者原合戦の碑

 伝正の坊守は栗山大膳{大膳の 妻は黒田兵庫助利高(如水公の実弟)の妹}の二女利根。
 第四世元宿は延宝年中筑前国の触頭となっている。明治の初めまで。
 坊守は栗山大膳の三女と伝えられている。(「福岡 市政だより」昭和57年10月15日発行第798号より第801号の4回連載で“ふくおか歴史散歩”―230-よりー233-に光専寺の歴史が掲載される。筆者は藤香会副会長山内勝也氏。)山内勝也氏は栗山大膳の研究者の福本日南も、これを是認していると。(福岡市政だより1983(昭和58) 年1月15日発行第801号より)
 1695(元禄8)年12月16日黒田綱政側室光照院殿妙薹□□を光専寺に葬る。現山門横。


黒田綱政側室の墓

光専寺第十世大超の寛政六(1794)年五月十四日本願寺第十八代文如上人より、法如上人御影下付並びに寛政十二(1800)年三月二十一日、文如上人御影が下付されている。第十一世義謙の文化十二(1815)年三月、本願寺第十九世本如上人より「御絵傳」下付。文化十二(1815)年四月六日、本願寺第十九世本如上人(38 歳)より、御画「葦鷺」を御染筆下付されている。(光専寺に現存保管)
 第十二世謙渓の元治元(1864)年庫裏再建のとき、「黒田藩御金蔵ヨリ五十両御拝借門徒中奉加志ヲ庫裏普請速ニ成就仕之事」とあり、門徒中後に藩に 御拝借金を御返済する。明治九(1876)年九月四日、「広如上人」御影下付。大正九(1920)年九月二十一日「,明如上人」御影下付。
 第十五世升量の昭和二十(1945)年六月十九日住職出征中の第二次世界大戦福岡大空襲により光専寺の諸堂宇を焼失する。復員後の昭和三十五年鶴城山ゆかりの中央区平尾(現在地)に寺基移転し、ゆかりの光専寺門徒墓地を改 葬して、平尾現在地納骨堂に埋葬し、昭和三十八(1963)年四月十五日本堂完成する。
 15世坊守サヨコがご本尊様、法物、過去帖など空襲の被害から良く守 り、現在存続す。
 第十六世住職厚雄
 平成十一(1999)年四月二日、庫裏を新築し、當山の法物、{寛永元年の『蓮如上人御影』、同十五年の『御開山聖人御影』、同十七年の『太子・七高僧御影(』いずれも、今次大戦にて一部焼損した御影類)}を京都国立博物館内 文化財保存修理所表具(株)宇佐美松鶴堂にて四幅の御影を「御修復」する。
2012(平成24)年10月21日光専寺第16世厚雄記

(歴史の詳細は年表を参照)